昭和四十五年九月五日 夜の御理解
只今熊谷さんがお届けをされますのに、今日は丁度あの小野先生が何時も一緒です。丁度熊谷さん達があそこでテープを聞こうとして居られる時分に何時も時間を計ってまあ見えるのでしょうその頃何時も見えて一緒に御理解頂いて帰られます。「今日熊谷さん私の車に乗っておいでられませんか」と誘われて田主丸まで乗せて頂いて、道中で「熊谷さん何時に合楽に見えますか」と、「私は一番のバスで来ますと丁度合楽に六時に着きます」と。それでもう御理解が終わったと云うところに何時もお参りをするんですけれどもね、まだ朝の御祈念の雰囲気がそのまま残っていおって皆さんが一人一人お届けをされた一番最後にお届けをさせて貰ってテープを聞かせて貰うんですよ」と言うて話されたら、「そりゃあその勿体ない、非合理だ」と云う訳ですね。それより二番か三番にされてどうせ御理解だけしか頂かれんのならテープを頂かれるんですから時間を遅らされたらどうですか」と、「その方が合理的ではないですか」と言われたと「けれども小野先生やっぱりね、どうでもお参りは一番のバスでさせて貰うと決めて居りますから、もし近くて歩いてでも行けれるところなら実際は歩いてでも行きたいのですけれども、これはまあ私の神様へ向けて居る心の状態がそのまま一番のバスで来るんですよ」と言うて話されたと云うことですけれどもね、皆さんはどういう風に感じられますか。やっぱり小野先生の言われるように一つか二つかゆっくり遅う来て丁度んならテープだけを聞いて帰るならその方が良かろうようにありますね。ところがそのこれは金光様の御信心だけに限ったことではないでしょうけれども、人間の都合の良い事だけが合理的と思うたら大間違い、信心で云う合理的と云うのは神様の理にも合わなければ合理的とは言えない。もうそれは私はまあ人間の側から云うと超合理的だと、ね、合理的なものを越えて居るのだと云う風に申します。けれどもそれがね、やはり神様の心の神様の理に合うと云うこと。それが信心させて頂く者の合理的な生き方なんだからね。その辺のところを一つお互いが心得て信心を致しませんと本当のおかげになってきませんです、本当のおかげに。
今日もね、午前中奉仕させて貰って居る時に、息子さんがどうも近所の良くない友達に誘われてこの頃晩夜更しをしたり、まあいらん金を使ったりすると云う訳ですよ。ですからあのうあの人とはつき合わん方がよかよと言おうと思いますがどうでしょうかとこういう様な事だった。だから言うて聞けばいいよね、けど聞かんとこれは反対になって来るから。例えばどうであってもね、私は神様にお取次を頂いてお願いをしてです、ね、神様にお願いをするだけの方がよくはないかと言うて申しましたことでした。でないといわゆる本当の自他共の相手のよくない友達も又自分方の息子もそれではおかげにならんだろう。その事をお届けさせて貰いよりましたらね、あのこの頃の大風のときの大和さんところやら久富さん方の事を頂くんですよ。ね、あの風で屋根がほげた。あの風で屋根の半分が大和さんとこでは飛んだ。小屋が倒れた。だから風が吹くようですからこれをつんばりでも入れて倒れん様にしといた方が良かろうごとあると云う訳です。ね、ところがね、もう倒れるものならね一辺倒せと云うんですよ。吹き倒されるなら吹き飛んでいってそして新たなお繰合わせを頂いたがいい。もう神様の御守護の中にあるのだからお願いをしての事。これが信心がないならそうかも知れません。破れ家でもやっぱり当てたり又はつんばったりしてまあ一時でももてさせた方がいいかも知れません。しかし信心がある者のこれは家だけ台風の時だけじゃあないよ、ね、そういう時にです、つんばりをしたり物をかぶせたりしてそこを一時偲ばせて貰う、いかにもそれの方がいいごとある。あんたあげな人とつき合わん方がよかよ、あげな人と付き合いよるとあんたまでいっちょ不良になって仕舞うよと言うて聞けばまだよし。聞かなかったらいよいよいけないことになるのです。こっそりでも行くようになる。家の金を黙ってでも持って行くようになる。まあだお母さんに言うて持って行きよるぐらいの時だからまだよかうちです。そしてそれが眼に余るごとあるなら願い、願い願うがよい。願って吹き飛ばされたらね、そこから新たな信心が生まれて来る。こう信心して居ればよ、大和さんでも久富さんでも信心をして居るから次に何とも言えんそれこそ大和さんでは無いけれども、それから一週間後ぐらいにその前後に神様の働きを思うたらとにかくもうほんとに泣かにゃ居られんちゅうごとあるおかげになって来て居る。改めて御礼をいわゆるそれだけ沢山お金が要った後にです、またまとまったお金のお供えでもしてからその事に対してお礼を言わにゃ居れないと云う程しのおかげになってきて居るです。だから吹き倒れた方がいいんだ。神様の御守護の中にある。お取次を頂いての日日の働きの中にあっての事なのだから。これが合理的なんです。信心で云う神様の心の神様の神の理に合うた生き方を信心で云うのは合理的と云うのである。それをね、手前の人間の都合ばっかり考えちから、折角あのう時間を少のうしてお初穂を少のうしておかげ頂だきゃ頂くならばそれの方がよかじゃないかと云う様なです、小野先生の様な考え方もね、そういうところがやっぱりあんまり知恵の多い人やら理のいがった人ですねいわゆる、りんだった人、いわゆる学が身を喰うと云った様な結果になるのじゃないでしょうか。そういう事は例えばね、糸のような風が吹いてきてもし吹き倒れるなら吹き倒れたが吹き倒れることに依って新しい建築のおかげを頂いている。吹き抜かれることに依っておかげで新たな麦藁の例えば神様が準備して居って下さったかの様にして久富さん方辺りでも思いがけないあちらこちらの援助があってです、かえって立派な家を葺き上げることが出来たと云う様にです、ね、私は信心させて頂く者のおかげと云うのはかえってその事に依っておかげを受けたと云うおかげでなきゃいけんと云うことですよ。ね、それをちいとばかりこうやって手で抑える様な考え方してこれだけまあ抑えたとこだけは吹き飛ばされんかも知れませんよ。いかにもそれをね、そのうなんちゅうか合理的な様なもう実に浅はかな考えでねお互い信心してはね、おかげがそれだけのこと。神様が吹き倒してどういう立派なものを建てて下さろうとしているかと云う事かも分からん。そのおかげに触れることが出来る。信心で云う合理的と云うのは神の理に叶うた時それが合理的なのだと。私共人間の知恵、力、自分の人間の便利の事ばっかりね、いわばおもんばかってそこだけに理が合うとりゃもう合理的の様に思う。いやそれを言う方が親としてほんな当り前の事の様に思う。子供がそういう悪い遊びをね、まあ悪い遊びかどうか分からんけれども、とにかくまああの人と出て行くと何時も金ばっかり持って行くという時です、言うたがよかろうか、いわんがよかろうかまあ言いなさんな、そして神様にお縋りしてみなさいと。そしてそれが吹き倒される様な事があってもそれから新たな生き方がその子供の上にでも頂ければそれの方が有難い。ね、そういうおかげを皆さん願って信心させて貰うから、信心をだから度胸を据えてかからないと本との信心は出来ません。と、いうことが分かるね。 どうぞ